昭和51年05月17日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 どう言う様な時に神の綱が切れたと言う様な時か、又はどう言う様な時が神の網が切れた時かと、もうまさに切れようとしておるような、昨日の朝の御理解を頂きますと、これ程信心するのにどうしてこの様な事が起きて来るであろうかと思うたらもう信心はとどまっておると、もうこれは神の綱が今にも切れようとしている時です。ですからなら矢継ぎ早にそう言う様な、例えば思うようにならない事が続きどもしたら、もういくら信心しても同じと言う様な神様を外してしまう。
 神の綱が切れたというのはそう言う様な事ではなかろうかと思います。昨日は大分支部の御大祭。普通でなら申しますならあいにくのお湿りでと言う所でしょうけれども、信心をさして頂くものは、その自然の言うならば働きの妙というか、そういう妙に感じ入ってそこから有り難い。あれだけもう前々からちゃんとお取次を頂いてお願いしとったにも拘らず、しかも天地が自由になるといつも言われる程しのに、どうして昨日に限ってあんなお湿りがあっただろうかと、言う様な頂き方はやっぱりどうしてという事になる。
 咋日あちらでお話ししましたように、それこそ、あのう降りつ降らずみのお湿りの中に本当に心からもうしっとりとした心の状態で、お祭を奉仕させて頂く事が出来た。あのうもう住いの方からお広前の方へ参ります時には、もう本当にあのうまぁパラパラのお湿りではありましたけれども、先生方それぞれにあちらの御信者さんが蛇の目の傘を一人一人に差し掛けて、もうそれこそもう何んと言うですか優雅というか、なんんかなんとも言えんその情緒の中にお広前に向かわせてもろうた。
 お広前のあのう障子を開けた途端に、もうそれこそあそこのお広前が溢れる様な一杯のご信者さんが、そしてご神前はと見ると、もうそれこそ神々しいまでというか、華かなというか、もう何かそういうもうそれこそ大分支部の御信者さん方。綾部さんを中心にして、もう美事なあのうお祭りの奉仕をさして頂くのに、もういやが上にも有り難い心が盛り上るような雰囲気の中に、私のいわゆるそのう天地に対する願い思いの、言うならばあのお湿りに対してシットリとしたというその心持ちと、それとが一つになってもう一遍に、こみ上げてくるような感動の中にお祭りが仕えられました。
 ちょうどお祭りを奉仕させて頂く時間をこうお装束を着けて待っとります時に、私が御心眼に頂いたのが、花札に小野道風の絵でしょうか、このう傘を差した絵が花札があります。私は花札を詳しく知りませんので、あれがどういう役をするのか知りませんでした。それで誰かに聞こうと思うて、久富正義先生がまあして来て下さって私のとこに来て貰って、大体花札のあのうあれは私共はあれを「ガシ」と言いよったあの、あれはどういう役をするのですかと私が聞きますと。
 あれはあぁたもう何んでん自分の自由に何でん食うてよかですあの札は。と言う訳なんです。まぁそれを聞かせて貰うてから、本当に成程なるほどと思わせて頂く事ばっかりでございます。いうならば私のお湿りの中にお祭りを仕えられる時の心の状態が、あぁいう心の状態ならば、もう自由自在のおかげが受けられるという事なんです。例えば松の技に真っ白い雪が積っておる。その真っ白い重い言うならば、枝折れでもせんかと思われる位に雪が積んでおる。
 それをじっと支えて冷たいとも重たいとも、それこそ松の色さえ変えぬ松の、その風情というものが素晴らしいように、私共の上に起きてくる本当にこれが雪の冷たさであろうかとこれが重たい。ヘトヘトの時であろうかと思うような時であっても、その冷たいとか難儀とかを感じる時に、その冷たい事が難儀なことが一つの風情ともなる程しの頂き方であります。
 はぁ前々からお願いしとったのにお湿りあって、どうしてというのでなくて、そのお湿りをむしろお祭がいやが上にも、有り難く頂けれるような心の状態で、もうしっとりとした心でです落着いた心でです。お祭りに向かわせて頂けるその心の状態がです、言うならば花札にあるあの「がし」の札であり。あの札でならば自分のその場に出ておる、どういう自分の自由自在のものが、取る事が出来ると言う様なおかげと言う事でありましょう。ですから私はあのう信心はもう最高のいうならば。
 目当てというものを焦点にして信心は進めるべきだと思います。信心の稽古をする。そりゃ初めはいろんな難儀な問題から入って行きます。ですからその難儀な問題の、おかげを頂きたいというてお参りをして来る。そこから信心の迫力も出て、一修行さして貰う事になりますけども。この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる道と仰るのですから、どうしてもお話を頂かなければならない。
 そのお話しを頂いておる内に、信心の何たるかを分からせて貰うて、人間の最高のいうならギリギリのいうならば、大きな意味においての幸福のために、信心があるんだと言う事になる。ために天地の親神様の心を、金光大神のお取次によって分からせて貰うて、天地金乃神様の心を心としての、生き方が身について来なければならない。教祖はそのことを、「此方の事を生神というが、此方ばかりが生神ではない。ここに参っておる皆が生神だ」と仰せられる。此方がおかげの受け初めである。
 ですから金光教の信心の最高の目当てというのは、生神なのである。その生神を目指して行くその道すがらに、又はその日々の信心修行の焦点をです、神の心を心として行こうというところに、神の心どころか人間の面はしとるけれども、心は神とは反対に鬼じゃろうか夜叉じゃろうかと、言う様な汚い心に先ず気が付いて来るのであります。そういう心が一つ取られ二つ外されてまいって行く内にです、我ながら10年と信心が続いたら、わが心をまつれと仰る様な、わが心がまつれれるようなさが心が、自分ながら拝めれるような心の状態が、開けて来る。
 そこに人間幸福の始まりがあるのです。金じゃありません物じゃありません。ただ健康だけが幸福と言う事じゃありません。吾とわが心が拝めれる様な心の状態が開けてくる、そういう心に限りないおかげが約束されるのです。どうぞ大きな豊かな心にならせて下さい。限りない美しいそれこそ麗しの心にならせて下さい。無条件の御用無条件の奉仕をさせて下さいと言った様なです、天地金乃神様のお心を分析すると、そういう三つの柱から成り立っておるのです。
 天地の親神様ほど大きなお方はありますまい。だからその大きなお心に、私共もならせて頂こうと精進するのです。心が小さいからちょっとした事が起きて来ると腹が立つ。ちょっとした事が起きて来ると、もうこたえられないと言う事になってくるのです。大きな心の人を見るとです、問題が問題に一つもない。大きくなるだけじゃない。大きくてしかも限りなく美しうなからなけりゃいかん。天地の親神様ほど美しい麓はしい心を持っておられる方はない。
 しかも天地の親神様は、これは人間氏子だけではない。世の中の生きとし生きる者の上にです、もう限りないお恵みを無条件に下さってあるのでございますから、私共もまた私共なりに無条件の御用、無条件の奉仕をさせて頂かせて貰うところに、私共の心が神の心を心としての、行き方が段々出来て来る様になるのです。神の心を心としてという、何んか大変難かしいようですけどね、そういういうならぶ事に精進する事なんです。
 自分がしておる事に条件をもっての御用であったり、何んか物でもおねだり共する時に、御用をさせて貰うと言いながら、実は何んか欲しいから御用していると、言った様な条件がないもんもう無条件。それが神様のおかげというか神様の御神恩というか、神様のお恵みが分かれば分かる程、そうならなければ居られなくなって来るのが信心です。天地の御恩恵が分かれば分かる程、その天地の御恩恵に報い奉らねばおられない、それがいうなら限りない大きな心で、限りない美しい心で。
 しかも無条件に御用をさして貰うと言う事が、神恩報謝であると言う事が分かって来るです。信心生活とは神恩報謝の生活だと言う事になります。信心させて頂いて信心の道が少し分かりだしたらです、それは様々な過程がありますけれども、けれども眼目というのは、言うなら生神を目指す、我心が神に向うて行くと言う事であって。眼目と言う事はどこまでもです、大きく美しく無条件の私共にならせて頂くと言う事が眼目であって、眼目はどう言う様な問題が起こってまいりましても、それを合掌して受ける。
 それを一つの風情にでもする位な生き方に、ならねばならんと言う事が眼目でなからにゃいかんのです。ところが実際はそういう心の状態は、開けて参りませんけれども、はぁもう自分の心貧しきを分からせて頂きながらです、本気で本心の玉を研いていく、本気で改まりのおかげを頂いてまいっておりますとです。不思議に不思議にです、例えば目の前が真っ暗うなるような、難儀な問題がそこに起きてまいりましても、それを神様の御神慮ご都合の事であるとして、合掌して受ける事が出来る。
 もうへとへとするような、例えばもうそれこそ叩かれれば痛いし、キツイのですけれども、キツイけれども有り難い痛いけれども有り難い。それが私は問題を言うならば有り難く受けておる姿と同時に、一つの風情すらもそこから感ずる事が出来るとです。もうあちらはもう本当に人間的に見るなら、今が難儀な頂上であろうと。いろんな意味でしっかり苦労が続きよる修行が続きよる。けれども本当にいつの場合でもあの人を見るとです、クーッとした顔どんしてござる事がない。
 もういつも生き生きと有り難いもの一杯で、一人御用項きよんなさるという姿はひとつの風情です。いつも申しますように久保山先生が私が一番修行の真っ最中に、私が有り難い有り難いのお話をして廻っております時に「大坪さん、ほんなことあんたそげん本当に有り難かとですか。この難儀の中にしかも踏んだり蹴ったりの中に、本なこて有り難かつですか」と言うてその真偽の程を私に確かめなさる程しに、私は有り難かったです。其の時分に皆んなが私の姿を見て言ってました。
 それこそ夏も冬もない夏服一着でもう靴はボロボロ、もうその頃は靴もなかったから、下駄履きだったでしょう。破れたカバンを下げて(これらの服、靴、鞄をすべて教会では貴重なる記念として丁重に保存している)あそこに難儀な人があると言えばあそこにお話しに行く。あすこからお話しに来てくれと言やあそこにお話しに行く、と言った様な状態の時です。「ほんなこと大坪さんの後ろから御光がさしよるごとある」と言うた人が何人もありましたです。
 知らない人がそれを言いました。そういう雰囲気を持っていたのです。それこそ松に真っ白い雪が冷たい雪が、それこそ綿帽子のように降っておる。冷たかろう重たかろう、どころではないその風情が素晴らしい。松の優れたと言う事はそう言う事だと言われるように、人間の優れた人間の素晴らしいというのは、どういう難儀でも言うならば平気で有り難く、それを受け抜いている姿こそ一番尊い姿であります。
 そういう受け方が出来る時です、例えばあれだけお願いしとったのに、反対の事になってお天気どころか、お湿りになったと言う様な時っで、それを一つの風情として、いうならばしみじみとシットリとした心にならせて頂ける事を、有り難しと心に思われるような心の状態である事がです。もうそういう信心が続けていかれておる限りです、お徳を受ける。それこそ自由自在無尽蔵、無限の神様のお恵みを、受けて行く事が出来ると言う事であります。
 今日は私は皆さんに「神の綱が切れたというが、神は切らぬ氏子から切るな」と仰せられる。神の綱が切れる寸前。昨日の御理解からいうて、昨日はこれほど信心するのにどうしてと言う事が、心の中に浮かんだらもう信心が止っておるんだと、もう既に神の綱が切れようとしておると言う時です。ならそういう今度は難儀な時がまたいうなら、泣き面に蜂と言った様な事が起こって来ると、もういよいよもう音を立てガタガタと信心が壊れ落ちて行くと言う様な人があります。
 そういう人に対して神様はね、そういう時こそ大事な時だぞと、そういう時にそれを一つの風情としてというか、合掌して受けて行くような生き方こそが、そういう心の状態が神を杖につくと言う事であり、神の綱を外さないと言う事である。それを自分はもうつまらんというて手を外す所から、いうならば神の網が切れる事になるのです。そこにはもう人間のいうなら幸福の条件というものが、壊れ落ちてしまう事になります。信心さして貰うてお徳を受けて。
 あの世にも持って行けこの世にも残しておけ、そして言うならば自由自在のおかげの頂けるような、おかげの頂けれる信心であるのですから、そう簡単には行けんのです本気で稽古をしなければ。だから本気で稽古をさせて頂けばです、今言うように人から見たならば、あぁじゅつなかろう(辛かろう)と言いよる時でも有り難うして、それこそ雰囲気から御光がさす程しの、心の状態が開けて来ると言う事であります。だから出来ません出来ませんけれども、願うところは生神を日指さなければならない。
 出来ませんけれども、やはりいよいよ大きくならせて頂く事に、美しうならせて頂く事に、いよいよ無条件の奉仕をさせて貰う、稽古をさして貰わなければなりません。そして願うところはどこまでも、神様の心を心としてと言う様な信心の探求、信心の追求がなされなければなりません。だから目当てというものは、遠いとこ遠大なところに置かねばならないと言う事です。それに私共は言うならば一生がかりで、一歩一歩近づいていこうというのです。
 そして私共の心が本当に豊かになり、大きくなり心がいよいよ有り難うならせて頂く。その心の状態でです、神様が下さろうとするおかげを、それこそ自由自在に頂いていけれる道を、体得するそれが信心なんです。今日は氏子から綱を切るような事をするなと仰せられるが、それが切れる寸前のところに、お互いがある時にそこをいよいよもって大事に、いよいよ神様へ近づかせて頂く手立てを、工夫して行かなければならないと言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。